小さな自分に気づくこと
「自分はなんてちっぽけな存在なのだろう」。誰しも一度は感じたことがあるのではないでしょうか。親鸞聖人もまた、自分の存在の小ささに思い至ったのでした。
これは、「正像末法和讃」にある和讃です。大意は、「慈悲の心のかけらもないこの私が、他のいのちを救えるなどとは思えません。阿弥陀仏の本願の船がなかったら、どうして人生という苦しみの海を渡れるでしょうか」。親鸞聖人は、自身のことを「小慈小悲もなきみ」といいます。阿弥陀仏の「大慈大悲心」を受け止め、自身に目を向けた結果、自分がもてる慈悲心の小ささを思い知り、このように表現しているのです。また、「苦海」という言葉があります。これは、親鸞聖人が迷い苦しみながら生きる姿をあらわします。自力ではとうてい渡りきれない「苦海」の中にいて、どうやって救われるのか。それは、阿弥陀仏の本願の船に乗せていだだくほかはないのだと、親鸞聖人はいいます。いのちあるすべてのものを救いたいのに、己の力でできることなどあまりにも小さいと自己嫌悪に陥っていた親鸞聖人。ただ阿弥陀仏の救いに身をゆだねればいいのだと気づいたとき、その心は、安堵と喜びで満たされていたことでしょう。