③稲田草庵(関東の親鸞)
小島草庵を後にした親鸞は、稲田(現在の茨城県笠間市)の地に草庵を結び、布教活動と家族生活の拠点とします。関東で最も長く住んだのはこの稲田で、その日々は約20年におよびました。当時の稲田は、宿場町として大変にぎわっているまちだったといいます。親鸞は、草庵にずっといることはなく、積極的に外へ出て布教活動を進めていきました。やがて、多くの門弟を各地に抱えることになります。中でも有力な24人の門弟がいましたが、彼らのほとんどは、稲田から歩いて丸1日かかる距離に住んでいたため、「朝、稲田草庵を出発し、夕方、門弟の家に着き、夜、教えを説いて翌日帰ってくる」そんな一泊二日の布教の旅を頻繁に重ねていました。時には長らく家をあけることもある中、草庵を守るのは妻の恵信尼でした。浄土真宗では、住職の妻のことを「坊守」と呼びますが、まさに家を守る存在として親鸞の布教活動を献身的に支えました。また、この地で新しく生まれた子どもたちとともに、賑やかで穏やかな家族との暮らしを送りました。稲田草庵にも、親鸞の話を聞くために数多くの老若男女が訪れました。「男性も女性も、職業も身分も善悪も問わず、どんな人でも念仏を称えれば救われる」その教えの背景には、市井の人々と交流する中で、彼らが抱える切実な思いを汲み取り、信仰へと突き詰めていった背景がありました。決して難解な経典や仏教用語を押し付けず、農民も、漁民も、商人も、誰にも平等に念仏の教えを説きつづける。来る日も来る日もこうした布教活動をおこなった結果、関東の地に真宗教団の基礎がつくられてゆくのです。そして、人々に説いて回った教えを仏教の教義として体系的に確立すべく、浄土真宗の根本聖典『教行信証』の執筆に取り掛かります。それも、稲田草庵時代のことでした。