⑧ 法然上人の法難
「親鸞聖人繪傳」専修寺関東別院 所蔵
1207年、親鸞聖人が35歳のときのこと。「承元の法難」という当時の仏教界を揺るがす前代未聞の弾圧事件が起こります。貴族としてお寺に寄進するか、僧侶として厳しい修行を積むかの二択でしか救われる道がなかったその頃、法然上人は「阿弥陀仏の本願を信じ、ただ念仏を唱えるだけでいい」という教えを説きました。それは、地位、お金、修行のどれも必要とせず、いまのままで救われるという一般民衆にとって大変画期的かつ魅力的なものでした。まもなく京都の町中にブームが巻き起こり、法然上人の住んでいた吉水の草庵にはいつも多くの人だかりができていました。しかし、決められた戒律を守り、ひたすら修行を積み重ねてはじめて救われるとする既存の仏教教団の側からすれば、その教えは異端であり、邪説でした。やがて、既存の仏教信者の中にも法然上人のもとへ向かう者が出始め、いよいよ黙って見ていられないということで、朝廷へ「専修念仏」を禁止するよう強く働きかけるようになります。当初は静観していた朝廷ですが、朝廷内にも念仏に魅かれる者が現れたため、この一連の騒動に終止符が打たれます。法然上人率いる教団の解散、専修念仏の禁止、法然上人の弟子4人の死罪が決まったのです。そして、法然上人は土佐へ、親鸞聖人も越後へと流されることになるのです。