無知の知と無恥の知
「失敗を犯しても、恥ずかしがる気持ちがあるならまだいい。私には、それすらもないのだ」。親鸞聖人が自身についてそのように述べた和讃があります。
これは、「正像末和讃」にある和讃です。「恥じ入ることも無く、反省する心も無いあさましい私でも、阿弥陀仏のくださる御念仏の功徳が十方(世界中)に満ち溢れ、包み込んでくれる」という意味。私たち人間は、できれば何の罪も過ちも犯さずに生きていきたいと願うものですが、実際にはなかなかそうはいきません。多かれ少なかれ、失敗をしながら日々を過ごしています。間違いを犯しても、反省し、悔いることができればいいのですが、親鸞聖人は、「私は恥じる心すらもない」あさましい人間なのだといいます。かつて、ギリシャの哲学者ソクラテスは、「無知の知」という言葉を残しました。自分が無知の身であると自覚することから真理への道が開けるという意味ですが、親鸞聖人もまた、悟りを求める過程で自らの「無恥」を自覚したのです。そこには、親鸞聖人の厳しい自己批判のまなざしを感じ取ることができます。いまよりもっと深いレベルで己を見つめることが大切だと、この和讃は教えてくれているのです。