①越後流罪(関東の親鸞)
1201年、親鸞は、29歳の時、法然との運命的な出会いを果たします。比叡山での20年という長い修行に行き詰まり、生涯の師・法然の教えを一心に学ぶ日々はなんとも充実していたことでしょう。そんな中、親鸞の人生を突如暗転させる事件が起こります。旧来の仏教各派が、法然の説く「専修念仏」を非難したのです。専修念仏とは、修行をせず、ただ念仏を称えるだけですべての人が救われるという教え。これまでの仏教では救われなかった一般の人々が修行もなしに救われる革新性から、庶民の熱狂的な支持を集めました。そして、旧仏教は、焦り、苛立ち、嫉妬し、仏教史上かつてないほどの大弾圧事件を引き起こします。その結果、法然、親鸞ともに流罪に処せられたのでした。
1207年、流罪によって僧籍を奪われた親鸞は、生まれ育った京都を離れ、越後(現在の新潟県)の地へと上陸します。このとき35歳。妻である恵信尼も一緒でした。法然や切磋琢磨した同志たちと離れ離れになり、大きな悲しみを抱えながら始まった流人生活。僧でも俗人でもない、ただの愚かな自己を自覚し、「愚禿(ぐとく)」と称しながら、自分と徹底的に向き合う日々を過ごしました。そんな日々にも、やがて子どもがうまれ、慎ましくも小さな幸せを見つけていきます。また、越後では、初めて農民や漁民などの市井の人々と触れ合う機会となりました。人々の営みに目を凝らし、人々の声に耳をすませ、人々に心を尽くす。生きるとは何かを肌で感じながら、人間・親鸞の魅力はこの地で磨かれていきました。流罪宣告から7年。親鸞は、越後を出る決意をします。そこには、念仏布教への熱い思いがあったのです。新天地に選んだのは、関東でした。